発達障害者の一日

5月7日

悪い朝だ。

起きれば部屋の明るさで今が何時かわかる。今は曇りの5時半とわかった。これは正確であった。

 

今日も目覚めて一日が始まってしまった。

障害者やってうん十年。自分のことではそう驚かない。もう慣れたもんだ。

 

幸い障害者でも僕は音や光に敏感ではないので、普通の日常らしい日常を送れている。

 

今日は同居人が外出ということで、僕は癇癪が起きる。怒りのLINEを数通送り、今日も障害は絶好調であった。

 

 

まずは音楽をかける。同じ曲を20回30回とかけて聴き入る。そう、自閉症の症状であった。

 

 

とりあえず朝ごはんを食べ、アトモキセチン(ストラテラ)とエビリファイを飲んだ。

 

この微塵も変わらない薬のおかげで、物忘れは幾分おさまった。

 

 

起きたら目が見えなくなっていればよかったと思うこともある。今であれば春琴抄の佐助の気持ちがなんとなくわかる。

 

何故目に見える障害でないのか、何故尋常でないのかを考える。盲目とか、足の障害とか、目に見える障害が羨ましい。健常者の方こそ実は障害者なのではないのかと思うこともある。

 

 

常識すらネットで調べないと分からず、ルーティン作業以外が発生するとバグってしまう。バグだらけの頭は人とは違うらしい。

 

 

 

 

5月20日。出勤

 

工場地帯を抜ける通勤快速。今日はいつも座れる8号車3番ドアに乗らず、降車駅の階段の前になる7号車2番ドアに乗る。景色はいつも通り。道路の看板と工場の看板ぐらいしか楽しいものがないが、その看板を見れば頭の中の地図でどのあたりかは想像がつく。

 

排水の垂れ流しになった汚い川を見る。

耳には2018年の曲が流れていた。もう4年も前だった。同じ曲を何十回何百回と聞くので、一年に開拓する新規の曲は10曲もない。

 

 

あ、そろそろ電車が揺れる頃だ。頭の中に線路の配線図があり、揺れるタイミングすら覚えていた。

これは障害か?性格か?

 

表にはそんな病的な性格は出さないようにしながら誤魔化してきた。

 

普通の人はこうではないらしい。

普通の人が怖い。普通の人が羨ましい。マジョリティ側であったらどんなに楽だっただろうかと考える。

マジョリティは10分の遅刻を気にせず、イレギュラーに対処でき、自らイレギュラーを生み出すそうだ。

 

友達と会う時に感じるあのものすごい憂鬱さもないそうだ。

趣味を続けるのにも新しいことにチャレンジするのにも苦労がないらしい。

 

僕は一生障害者。ミスと憂鬱感は薬でなくせるが、自閉症の症状はなくすことはできないらしい。

 

発達障害者と健常者はわかり合うことはできない。健常者が大衆を占めるこの世の中で発達障害者は苦しむしかなく、死ぬことも許されない。

 

障害者は自由に安楽死できる世の中であってほしい。

「障害者は生きている価値が ない」「社会に不幸を作ることしかできない」という障害者大量殺人鬼の言葉は事実である。

 

こんなに生きづらくて、普通の人でなくて、仕事ができなくて、生きている意味あるんですか。

 

生きている価値なんてなくて、要介護で、仕事でもミスばかりやらかすのである。

 

死ななければならない。

今日は駅の広告のここが変わったとか、今日はいつもと違う車両が来たとか、そんなことがわかっても生きてて役に立たないのである。勉強なんかできても、活かすための機構が障害があっては意味がないのである。

 

今日は外なのに涙が出てしまう。

自殺するしかない。

 

駅に着いた。今日は人に衝突せずに済むかな。と不安になる。案の定衝突した。「こいつは俺よりは弱い」ああよかった。

 

ホームドアがなければ今頃死んでいる。