人間は死ぬために生きているのだろうか…
これを感じたのはTwitterのフォロワーの「最近なんのために働いてるのか生きてるのかわかんなくなってきてる」というツイートからだ。
人間など結局はうんこか子供か虚構しか生み出せない存在であったのである。
この社会も人工物も文化も全て虚構である。
本当になんのために生きているのか…
これをお坊さんに聞けばほぼ100%皆「バトンを渡すため」と答えるという。
お葬式スタッフ経験12年の方が言うのだから本当だろう。
どんなに小さいうちに亡くなっても「親を喜ばせる」と言うバトンをちゃんと渡したのだという。
でもバトン…僕が持たされているバトンはトイレットペーパーの芯のようなものなのではないだろうか。水をかければふにゃふにゃになってしまって、トイレットペーパーがなければ役に立たない、それ以外の使い道がほとんどないものである。そして中には「毎度有難う御座います」と仰々しく書いてあるのである。
これは、朝日新聞のケツ破壊トイレットペーパーである。
昔、小学生時代は稀に家でとっていた朝日新聞を読んでいた。僕は「天声人語」と「素粒子」のコーナーが結構好きでそこだけ読んだものだった。
その素晴らしいコーナーは読めば読むほど奥が深く、思わず読み入ったものだった。そして古紙回収に出し、天の声や素粒子でできたトイレットペーパーでケツを拭き、ケツを破壊したのだった。
しかし小学生の僕もある日違和感を感じた。昔の天声人語や素粒子は、豆知識や節句の話など、教養に役立つものが多かったのだが、担当者が変わってからというもの、なにかと政権批判をするだけのコーナーとなっていた。
「民声人語」に「反物質」となってしまったのである。
悲しかった。新聞再生紙のトイレットペーパーにお尻を破壊されるだけでなく、ここを改悪してきたか!と驚いた。
残念ながら政権批判など誰でもできるのである。そこら辺の中学生でもできる。
結局のところ、その天声人語に素粒子の良かった点は教養を絡めた字数制限のある社説であったことだ。これは熟練した技術が必要なのである。
読んでいるだけで勉強になるから「天声人語を書き写す人」がいたのに、ただの政権批判を書き写して気分がいいわけがない。そんなのは愚痴を言えばスッキリする人間ぐらいだ。愚痴というのは「愚かな」痴態を晒すのである。
まんこ
昔から、僕が好きになるような容姿性格の女の子はメンヘラであると相場が決まっていた。
それはいい。
それはその僕がそういう嗜好だから仕方がないのだが、ある時、ある音楽グループの好みな顔をしているアイドルが自殺をした。
また、歌がうまくて(無論ライブでも口パクなどない)歳を重ねても顔がいい僕が一番好きな歌手も鬱病を発症した。
人生いろんなことがある。バトンを渡さなければならないなら鬱病のバトンがあってもいいのだろう。
それでも、その一番好きなアイドルは鬱病になってしまったとはいっても、確かに、少なくとも僕は彼女に元気づけられたし、何かを与えることはできるのだと感じている。
まあ、僕にはできないんですけどね。僕はその「毎度有難う御座います」のバトンで、他人のケツを破壊することしかできない。
トイレットペーパーでケツを拭き、血が出てしまった時は僕を思い出してくれればいい。「ああ、あんなやつもいたな」と思い出される程度の生き方はしていきたい。
このバトンを握りしめながらおばんざいクリフから飛び降りるのもそう遠くはない未来かもしれない。
そういって10年後も「明日僕は死ぬかもしれない」などといってブログを書き続けたらどうしようと不安になっている。
今回は文字数超過してしまった。
一番好みの顔をしている女が自殺未遂をしてしまった。
いつも乗る直通電車を逃してしまった。
労働でミスをして怒られてしまった。
毎度有難う御座います。