自殺。入水自殺未遂体験談

最初に投稿する話題は「自殺」とさせていただく。

まずお断りさせていただくが、僕は他人、読者の皆様の自殺に関しては肯定も否定もしない。このブログを読んで自殺を決意したとしても絶対に責任は取らない。ただ僕は今だってしっかり死にたいが死ぬ勇気も出ない人生怠け者である。

 

 

 

「自殺」とか「死にたい」とかGoogle大先生に検索をかければ自殺者に向けた色々メッセージがヒットするであろう。このブログもその一つかもしれない。ヒットするほどGoogle大先生に貢がなきゃみてもらえないかもしれない。

僕はGoogle大先生の示したどれを読んでも心には響かなかった。自殺寸前の人の心理状態などそんなものである。もし、救われる文章があるなら教えてほしい。文字という記号にそこまでのものを込めるのは容易ではない。ただ、この自殺方法はやめようと思ったものはいくつかあった。それは皆様も実際に色々とお読みください。失敗するとリスクが高い方法は今死にたい方が味わっている生き地獄をより一層深めることになるでしょう。

 

 

ただ、僕が死にたいと思う時、自殺を後押ししてくれるブログやメッセージがあったら、ちょっと安心したかもしれない。「死んでいいんですよ」って言われたら安心して死ねるのにね。責任を負いたくないからだろうが、自殺を後押しするものは少ないのだ。本当に生きて欲しいと思っているのかもしれないが、思慮が足りない。

死にたい人にとっては生きること、この現世が地獄であり、死んだら少しでも気が楽になるかもしれないと思っている。(少なくとも僕はそうだった)

 

ある方がツイッターで、死は救済ではなくリセットだと呟いていた。妙に納得した。今がマイナス状態の人は死んだら0になるから死にたくなるし、今がプラスの人は0にはなりたくないから死にたくないはずだ。

 

 

長い前置きをしたが、僕は自殺未遂をした。以下は備忘録である。

 

 

あれから結構な月日が経ったが、自分の記憶が消えないようにまずはしっかりと記録しておくことにする。つまらない文章ではございますが、それを読んでいただきたい。

 

 

僕のしたことを客観的に言えば、高さ10mぐらいの高さの橋から川にポチャーンである。

 

 

詳細に触れていこう。

大学卒業間近の晩冬の昼間、暖かい日差しが差す春の雰囲気を感じる中に肌寒さの残る午後であった。

僕は彼女、正確には元彼女と大げんかした。詳細は記載できないが、別れた後も、付き合ってた頃の契約が云々とか色々な問題があってよく揉めていたのだ。

 

親と元彼女と板挟みになり、別れたことによるショックや大学卒業に対するもやもやしたメランコリーも相まって感情が爆発した。

爆発して大泣きしながら家を飛び出し、そのまま一直線に近所の一級河川へ歩いていった。一級河川で暴れ川として有名なこの川なら死ねると思ったからだ。この爆発した自分の感情を鎮めるには死ぬしかないと思っていた。

 

結果として、感情を川に沈めた。川は満潮後引き始めた頃合い、空は晴れわたり、そのたもとで僕はしばらく橋の上をウロウロしていた。何故なら、人通りは途切れずあったからだ。冷静さを失った僕は、遠くへ行くことはできなかった。2年前は、飛び降り自殺なら千葉県の「おせんころがし」に行こうと思っていたが、その時の僕は近所へ行くので精一杯だった。

 

そして僕は川を眺めたり渡ったり戻ったり、携帯を開いたりとその時を待っていた。

やめようかという迷いは何度か生じた。しかし状況を考えれば考えるほど死ぬしかないと思った。まず母親にメッセージを送った。死にますということ、若干のお詫び、バイト先の連絡先を載せるので精一杯だった。自分が頑張っていたバイト先には連絡しておいて欲しかったからだ。

 

そして僕のツイッターに「自殺する」とだけ呟いた。35人の4〜7年来の友達は何も反応をくれなかった。まあいつも死ぬ死ぬ言ってたしな。「生きてた」とツイートしたらようやく反応してくれたよ。

 

通行人がいなくなった瞬間、気がつけば手すりをまたいでいた。もう手すりより川側にいてハッとした自分は、「ここから歩道に戻ったら不審だ。」と思って思い切って飛び立ってしまった。携帯をまだ手に持ったまま。リュックはしょったまま。

 

飛び立った瞬間、残念ながら走馬灯とかは見えなかった。結果として生きていたからだろう。

見えたものは、雲のほとんどない青空、そして日を反射してきらめく川面だった。きらめく川面はどんどん近づいてきた。

 

ジェットコースターとかフリーフォールとかが大好きな僕にとっては絶叫アトラクションだった。とにかく気持ちが良かった。興奮状態でアッー!と叫んでしまった。

 

すごく大きな音が出たらしい。背中のリュックから水に入ったらしく全く痛みはなかった。水に入った瞬間、すぐに「あっ、生きてた」と思った。視界は緑色になった。諦めず川の水を飲んだが、とにかくまずかった。塩素みたいなにおいがした。なぜならここは県内でも屈指の汚染された河川だからだ!

川底は足がつかないぐらいの深さで、すぐに浮かんでしまった。上着と服の間に空気が入ってしまっていた。リュックも浮き輪のように浮かんできた。ちなみに有名ではあるが、海などで服をきたまま流されたら服と腹の間に空気を入れて浮き輪にすると浮かんでいられる。浮かんでしまったらもう絶望感しかなかった。死ねなかった。

 

大きな声と水の音で橋の工事業者、近くの通行人も気がついた。工事業者のおじさんが真っ先に「おーい!大丈夫か!」と大声で呼びかけた。

「大丈夫です!」

「岸まで来られるか!」

「行きます!」

そうして僕は水をかきながら工事業者のいる岸へ向かった。岸へ向かうにも25m以上はある。身体のどこも痛くなかったが一苦労だった。水はあったかかった。橋の上からは野次馬が数人いた。野次馬が嫌いになった。

 

護岸があがれないので引っ張ってもらうとすぐ救急隊がきた。救急車に乗せられ必死に抵抗した。運ばれたら請求が高い!と思った。とりあえず脈とか取られたが問題ないのでなんとか搬送は避けられた。

 

次は警察だ。警察官は3台ぐらいのパトカーで来た。そんなに来る必要があるかと驚いた。僕が税金を使ってしまった。警察官には落とされたわけじゃないか(事件性はないか)、呼気にアルコールがないかを確認された。水に濡れた服は重く身体の体温を奪った。ガタガタ震えた。身体も震えブルブル動いてしまう。

 

パトカーに乗せられた。一生のうちでパトカー乗れるのなんて逮捕されるかこういう機会かしかないだろう。ちょっとワクワクした。

経緯を何度も説明するのが面倒だった。片手にもっていた携帯はもう川の底。メガネも川の底。

 

警察署へ連れて行かれた。警察署では尋問部屋みたいなところに案内されたが、向かいには巡査部長が座った。死んだら元も子もないと何人にも言われた。「俺らだって自殺した若い人を見るといたたまれない」と具体例を交えながら言われると、さすがに反省せざるを得なかった。

 

母親が迎えに来た。怒ってはいなかった。いなかったが、悲しまれた。着替えを持ってきてくれたことに感謝した。母親とは普段から仲が悪いわけじゃない。感謝している。

それからはあんまり記憶がない。夜はマクドナルドで食べたっけな。家は荷物が多く大荒れ、お風呂に入ったら疲れちゃってすぐ寝た。

 

次の日は携帯紛失の手続きをした。その次の日は眼鏡作りをした。着ていたジーパンは色が抜けた。目はしみて痛くなった。汚染された河川の恐ろしさを知った。そこで生きてる魚はつええな。僕の3000倍強いよ。

 

そんなことを思い出していたらまた死にたくなりました。でも死にたいと思っている皆様は頑張って生きるんだよ!

僕はこの地獄が耐えられなくなって7年ぐらいが経ちました。つらくないならいつでも死ぬのにな。貯金で見れば、スイスで安楽死ができる金額までもうちょっと。もうちょっと、あとちょっと頑張って、貯まったら派手に旅行して、美味しいものいっぱい食べて、それで気持ちよく死にたいな。今はそう思えるぐらいには元気になりました。僕は能無しで恵まれた環境でも幸せを感じられない不感症です。

 

日本の若者の死因一位は自殺などというデータもありますが、そのデータを変えたければもっと他殺を増やすか病気を蔓延させるしかないでしょう。

自然界では半分運、半分強さによって生き残れる者が少ないのが掟です。高度に発達した人間社会では自殺という形で自然淘汰されるのでしょう。

 

死にたいと思ってるみなさん、きっと寝る前に「今日眠ったら永遠に起きなければいいのにな」って思っていらっしゃるでしょう。誰かが死んでしまったという訃報やニュースを聞けば、「生きたいと思って亡くなってしまった人と代わってあげられたらいいのにな!」って思うでしょう。僕も同じです。今の僕には共感しかできないです。

とはいえ、死ぬのも結構簡単じゃないようです。相当辛くないとふとできないようです。生きるのも難しい、死ぬのも難しいとつらいですね。

 

今日はここまでにして寝ることにします。明日起きなければいいのにな。でも僕はどうせ明日も生きてる。こんな贅沢なことを言って申し訳ございません。生きたいと思う皆様に寿命を分けてあげたいとはいつも思っておりますからそれだけは許してください。