節目

発狂自殺川に飛び込んでn年が経った。
今度久々に発狂自殺川の飛び込み台橋を見に行こうと思う。


神のいたずらか、自然条件がよかったのか、僕は死ぬことも怪我もなかった。せめて大怪我でもしていれば、詐欺営業会社もサークル的ノリのブラック企業も無職も苦しむ必要はなかったのにな、と思う。


しかしアクションを起こさなければ結果は伴わない。死ねるその瞬間まで自殺未遂を繰り返すほかない。

思い返せば、正直気持ちが昂って正気でない状態でないと自殺することはできない。
慢性的にやる気のない状態で死にたいと思い続けても、自殺できるあの行動力は起きないのである。



「生きてたらいいことあるよ」は真だとは思うが、「悪いこともあるよ」なのである。

いいことは1割もなくて、悪いことは9割なんじゃないかと思う。
「なんでもないことに幸せを感じられる」ほど器用ではないし、そのための努力をする体力も残っていない。


だんだん歳を重ねるごとに治りにくくなっていく傷や黒ずんでいく生殖器を見て、発狂するほど苦しくなっていくのである。





昔から自殺は悪いことのように言われてきたが、それは自殺を容認してしまうと生産年齢世代の数が減ることで社会的な打撃をもたらすからではないだろうか。


自殺は逃げ


自殺は迷惑をかける


そうですか。僕は逃げていますし迷惑もかけてますよ。

なるべくなら迷惑はかけたくないですよ。

僕の傾向で気づいたんですが、入社した挨拶で「迷惑をかけないように頑張ります」と言っていた人は結構辞めやすい。または迷惑をかけやすい。
僕も人生で最初に喋った言葉は「迷惑をかけないように頑張ります」だったのかもしれない。


で何回そしられようと僕は生きていたくないのです。
そもそも僕は労働する気がないので社会的に存在する価値なんてないし、お金を使わないので経済も回さない。まさにうんこ製造機なのである。


最近はかけるなら派手に迷惑をかけて死ねたらそれはそれでカッコいいような気がする。しかし三島由紀夫のように腹を割ったとしても、きっと僕の自殺は3年もすれば忘れ去られるであろう。


だから、生きても死んでも無意味なんですよね。


死ぬ自由を早く獲得したいです。自由権にも明記してほしい。なんなら憲法にも「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」の次に「死にたくなったら自殺していい。」まで書いて欲しい。


福祉として死を整備して欲しい。最高限度に楽で恐怖のない死に方で、合法的に自殺したいのです。


その時までは、僕は死なないでおくのです。
ただ、死なないように、たまには自分のために生きてみようと思います。あまり自分の欲しいものを買った覚えがなかったので、自分の欲しいものを買ってみたり、いっぱい女を引っ掛けたりして、サイコーの人生にして満足したいと思います。


精神科は行けていません。僕はただの怠惰な健常者で「救えない」と言われることが怖くて仕方がありません。または障害者手帳のもらえない程度の何かであって、何者でもなかった時は恐ろしくてしようがありません。
おそらく僕は帰りに飛び込んでパーティーしちゃうと思います。



僕の優秀なTwitterのフォロワーから格言を引用して終わる。「生きてはないよ 死んでないだけ」