2020年12月27日
僕は何にも満足できないということに気がついてしまった。
これでも一丁前に恋愛したり、仕事をしたり、親の庇護のもとニート生活を送ったり、様々な人生を送ってきた。
客観的に見れば、この国の中ではそれなりに恵まれた方であったと思う。
しかし何にも満足ができず、常に不満を持ち続けていた。
大抵のことは面倒くさく、能力が低いためタスクが溜まるとやりきれなくなってしまう。
早く私の首を切ってほしい。このうざったい脳が二度と機能しないように。
脳だけ水槽の中にぶち込んで変な管を繋いでブクブクされててもいいのだが…
いっそその方が諦めがつくのではないだろうかと思う。
僕は天国に行けないだろうし神からの赦しも得られないだろうから(この考えが最も罪なのである)、悪に手を染めないようにしながらもいいこともせず無意味に生き続ける。
好き勝手に生きていたのに最後だけケロっと反省すれば許されるのは都合が良すぎる。好き勝手されていた被害者は一生加害者を許せない。
悪いことに手を染めないようにする方法は簡単である。人間とかかわらずなんの行動もせず引きこもっていればいいのだ。
好きな言葉に「インシャアッラー」がある。これはアラブ語で「神が望むならば」という意味。
例えば待ち合わせをした際、人間はちゃんと間に合うように頑張るけれど、絶対的な存在でないために遅れてしまうかもしれない。神(アッラー)がお望みになったならば到着しますということである。
よく会話の中でもアラブ人は「じゃあ何日何時にどこどこで集合。インシャアッラー」と語尾につけることが多い。
僕は一時期イスラム教を齧っていた時期があって、その時代々木上原のモスクを訪れた。美しいモスクと評判になるだけあって、非常に美しかった。
中では信仰に来ている方やモスクの方から、たくさんのトルコの炊き込みご飯とナツメヤシを分けていただいた。たいへんに気前がよく、優しかった。
僕にとってのユートピアはここなのかな、と一瞬思ってしまった。
たしかにイスラム教の教義がもし全て守られていたなら、平等なユートピアになるだろう。しかし、世界はそううまくいかない。
僕はそれ以来あのモスクに行けなくなってしまった。なんとなく怖くなってしまった。
2021年2月5日
やっと一つ、満足する方法に気づいた。仕事なり勉強なり、やりたくないことを鬱にならない程度にやり、残りの時間に残ったことをやるということだ。
やりたくないことをやっている時には、ついつい色々なことを挑戦したくなったりやりたくなったり妄想を膨らませるものである。(僕は勉強も仕事も中途半端にしかできないのだが)
2021年3月1日
今日は派手なやらかしをした。僕はしょうもなくミスを多発する。
これでもミスをしないよう精一杯気をつけているつもりだが、どこか抜け漏れていて後から大きな問題となるのだ。
勢いこんでまた無職になりたいのを必死に抑え、家に帰って盗んだバイクで走り出した。
目的地は、発狂自殺橋。今日は飛び込む予定はない。盗んだバイクに乗っていると頭では道路交通法のことしか考えなくなるので精神が楽になるのだ。
久しぶりに訪れた夜の発狂自殺橋は、記憶よりも川面から高さがあり、川幅も広く見えた。
夜景と星が美しいこの橋を見て、急にすごく怖くなった。
めまいのようにフラフラになり、うっかり落ちてしまいそうになった。
今は急に怖くなった。月は霞んだ満月。橋の影で真っ暗な水面が僕をよんでいる。でも、僕は死ぬことができない。怖くてしょうがない。
盗んだバイクと友達になって、ようやく楽しみができたという時に、死ぬには惜しい。
せめて、飽きっぽい僕がバイクに飽きてから、もう一度だけ白桃を追いかけてから、そう思って引き返す。
向こうの橋には弾丸列車が走り、下では釣りをする人がいて、橋を渡るマスクをしない地元の中学生は「(都道府県内公立2位)高校はA判定だったんだよな〜」と話している。
ユートピアなんて存在しないのかもしれない。
ユートピアの語源がそもそも「どこにもない」だった。どこにもないのだ。
全員にとっての理想郷など作れない。
ただ、自身の心の中に、ユートピアを作れるか否かなのだろう。
言い換えれば、自分が見ているこの世界に満足できるかどうかなのだろう。