人間が狂うもの

 

ブログは他人に読ませる為、というよりは自分の気持ちを鎮めるために書いていた。

 

 

尊敬しているある方がTwitter上で共有してくださったおかげで私が自殺しようとした経緯が広まることとなった。それだけでまあ、僕の飛び込みは無意味なものではなくなった。

共有してくださった方、読者には頭が上がらない。

と同時にまだ読んでいない皆様には頭が下がらない。

 

 

とはいえ間抜けな私はアクセス数というものをなんとなく気になるようになり出してしまった。アクセス数が多いと嬉しいし、アクセス数が少ないとあくせくするのである。承認欲求である。

 

 

こうなりだすと、途端にブログはつまらなくなってしまう。書きたいことを殴るように入力した文章がかっこいいのであって、他人の評価を気にする文章など「駄文」であると明治時代の著名な小説家[誰?]も言っている[要出典]

 

 

このままでは読者の期待することばかり書くようになってしまうかもしれないと変わりゆく自分に恐ろしく感じる。早く矯正しなければならない。人間は弱い。

人の心というものはコロコロ変わるものである。永遠の愛を誓った相手だっておじさんおばさんになってしまったら愛が消えてしまう夫婦が多いのである

 

 

自殺体験記がウケるのであればもう一度「死なない程度に自殺する」のがよいだろうか。死なない程度の首吊り、人身事故、飛び降り、練炭青木ヶ原樹海散策など、やれることはまだある。

おちんちんにリボンを巻くのがウケるのであれば次はお尻にしっぽを生やしたり淫紋を彫るのがいいだろうか。

 

 

僕は多摩川でラップバトルをした高校生に複雑な感情を抱いた。

何故僕は死ねないのに多摩川フリースタイルダンジョンの彼は死んでしまうのだろうか。何故僕は川に浮き、彼は川底に沈んでしまったのだろうか。僕はラップはできないし彼のようにラップバトルをできる友人もいない。何故無能な僕が生き、有能な彼が死ぬのか。ご冥福をお祈りする。是非次の世界では平和にラップバトルをしてほしい。

 

 

 

ふと思い返してみれば、私のブログなどというのは自殺未遂体験記を除いて田山花袋の蒲団のようなキモいおっさんがモチーフの自然主義文学の劣化版であるのではないかと感じている。

 

 

田山花袋の蒲団といえば、おっさんが奥さんがいるにもかかわらず性欲を抑えきれず女弟子の使っていた蒲団をクンクンする話である。

 

 

今なら書いただけで自称フェミニスト達にボッコボコにされるで。

 

 

若い女性が自分を慕っているなんて言ったら今まで自由恋愛をあまりできなかったインキャなら同じようにするだろうな。

 

 

武勇伝であるが僕も中学の時は同じクラスの女子は脚見ただけで誰かを判別できるほどの脚フェチであった。

なんてことを書いたら理性的なものかきも途端にキモいおっさんに戻ってしまうのである。

恋愛感情、性欲と承認欲求は人間を狂わせてしまうのだ。

 

 

我々は歳を取る前にこれらを理性でどうにかしなければ「キモいおっさん」の仲間入りである。

つまり、結婚してきちんと奥さんを愛し、性欲は自分でどうにかし、承認欲求は趣味や地域活動などで満たせばいいのである。その努力を僕はできるだろうか。いや、できないのである。

 

 

理性的になるという努力ができないなら、僕は次はラップ仲間を作り、韻を踏む技術を鍛えることとしよう。そして自ら負け、多摩川発狂自殺を決行するのがよい。

 

そう思って、何故か僕は韓国のラップを聴き始めてしまった。