自殺慈善活動

自殺が慈善活動になったらいい、と僕は考えている。

自分が自殺することで救われる命がもし1つでもあるとしたらどうだろう。貧困に喘ぐ子供達に自分が食べるはずだった食料が毎日支給されるようになるとしたら…

 

 

僕が無為な生活を送り、快適な家で何もせず、だらだらと過ごすことが幸せだと感じているのは無意味であると感じる。なんら生産的な活動をしていない。それなら、僕が死んで誰かが救われれば、それだけで生産的な活動をしたことになり、自分としては満足である。だからといってアフリカに行って開拓をしようとも思わない。頑張れない。しょうもなく非力であるという現実が心を刺すのだ。

 

 

夢見る子供が、発展途上国で環境破壊に苦しむ子供が、我々(一応)先進国に暮らす人間と代われたら、どれだけ彼ら彼女らは幸せになるだろうかと想像すれば、この交換慈善活動が必要なのではないかと感じる。

 

 

 

 

僕は死にたいので、自分の死が意味あるものになるならいくらでも喜んで死のうと思う。

「生きたい」と思っている人を根本的に違う人種だと思っているが、生きたいと願う人には生きていてほしい。僕はただ今すぐリタイアしたい。難病の子供に生きたまま臓器提供できたらどんなにいいかとも思う。

 

死んだら任意の誰かに寿命をあげられればいいとずっと願っている。寿命が販売できるなら自分はいくらでも寿命を売るつもりだ。

 

 

自殺に意味を持たせることができれば、今なあなあに意味もなく生きており、死ぬ勇気もない人々が一気に解放されるのではないだろうかと考える。生きるのが辛くてしょうがない人だって、最後に人助けになるなら死んでもいいかなと思えるかもしれない。自殺者は死んでも救われないなどと言われることもなく、死んでも人を救うことができるならどれだけいいことであろう。

 

 

そういう社会ができることを夢見ながら、今日も僕は死ぬことができなかった。

川を見れば飛び込む瞬間を想像し、電車を見れば身体がぐちゃぐちゃになることを想像し、ロープを見れば首吊りで呼吸困難となることを想像し、高層のマンションにいれば飛び降りて木っ端微塵になることを想像し、それで一発で死ねたら幸せだと毎日毎日何度も考えているが、どうにもこうにも死ぬことができなくなってしまった。

 

きっと勇気もなくなってしまったのだろう。それでいて、お腹を空くのも許せない、いっちょまえに性格が人間臭いのも許せない、自分の性格がわがままなのも許せない。怒られたくもない。

 

自分の自殺に何かしら意味づけができればさぞかし幸せだろう。

その時代を作るのは難しい。僕にはやりきる気力もない。ただ生きたいと願う人に寿命を、食料を、インフラを整備し、死にたいと願う人に死を与えるシステムがあればいい。

 

そのシステムを作ったらきっとかなりの需要があるだろうと思いながら、僕は今日も寝るのだ。明日目が覚めないことを願いながら。