7年ぐらい前、パタヤで自ら命を絶ったイギリス人の遺書がタイのニュースサイトで公開されていて、「イギリスでの人生はクソだった。だからタイに来れば人生が変わると思っていた。でもタイに来ても何も変わらなかった。クソなのは俺だった」と書いてあって、未だに思い出す。
— だいじろー (@DB_Daijiro) 2021年7月26日
ここの引用RTにもあったが、「死は優しさ」を身に染みて実感する。
環境を変えても生きづらい人が生きていかなければならない社会はあまりにも厳しいですよ。
優生思想ではないが、人生がクソな人間は生きていてもしょうがないのである。
何故しょうがないか?人生がクソな人間は救われるシステムがないからである。
環境を変えても人生が変わらない場合、自分の考え方を変えるか、行動を改めるかでしか救われない。しかし、一度ついた生き方の癖を変えるのは難しい。
側から見たら自殺は逃げだと思われるかもしれない。しかし、想像力の及ばないところで、どうにもできない閉塞感が自殺を生み出しているのではないかと思う。
逃げというよりは、よく考えた結果「逃げられないから」こそ自殺しているのではないかと思う。
人生がつらい人間でも生きていなければいけないというのは、発言した人間のエゴであり自己満足である。
無理に頑張ることに何の意味があるのでしょうか。
本質的にこんなにも社会や科学が発達した現代でさえ、頑張らないと生きていけないというのはおかしくないですか?
もうちょっとお手柔らかに、生きやすい社会が構築されてほしいものです。
環境を変えても生きづらいなら、自殺してもいいじゃないですか。
どうしていけないんでしょうか?
何も生み出してなく、人と関わらず、社会の隅っこで「きたないすみっこぐらし」をしている僕が生きている理由なんてないんじゃないんですか。
環境を変えたら生きやすくなるかと思っていても実際は生きづらい。ということはつまり、死んで仮に転生できたとしても生きづらいのではないか、という一抹の不安が訪れるのです。
人間以外の生き物に生まれ変わってサクッと死んでまた次を繰り返したい。
そう、彼がどんな境遇であれ、障害の有無に関わらず、自殺することは逃げでもなんでもないでしょう。
彼なりに色々考えた結果、どうしようもなくそれ以外の選択肢がなかったのでしょうから。
本来は自殺について、外野は何も言わないのが正解です。
外野は、口を挟んではいけません。彼の考えたことは、きっと書いてある遺書以上のこともあるでしょうから。
ついうっかり、僕の生き方にそっくりであったイギリス人の彼についてコメントをしてしまった。彼が救われますよう。