メリークリスマス

クリスマスイブにあたり、人間は小さいものだと感じた。

 

朝の満員電車、隣の中年男性は口の中でカラカラと音を立てて飴を回す。その音が不愉快だ。イヤホンで流す音楽を大音量にし、音をごまかす。音を防いだと思えば、次はそのハッカのにおいが伝わってくる。中年男性の口から生み出されたにおいだ。これは避けようがない。テロリストである。次に耳が痒くなってくる。前の窓に反射して視界に入ってくる。背中がぞわぞわと痒くなってくる。これもどうしようもない。五感が狂っているようだ。

 

 

自分も同じような汚い中年男性になってしまう、その恐怖が襲ってくる。人間の身体の設計耐久年数は30〜40年と言われている。たしかに16歳ぐらいで生殖能力がある程度整い、20代の間間をつけたとしても人口を上回る人数の子孫を生み出すことができる。何故その年数で滅ぶことができないのか。医学と科学と社会の発展が人間を「死なせてくれなくなった」。

 

自分は醜い中年男性になりたくないのに、ならざるを得ない。

死ぬ自由を求める!

 

 

死なせてくれない社会は今日もやれ労働をせい納税をせい、働く前の子供は勉強をせいと皆を鞭で叩く。鞭で叩かれた無知な群衆はただただ言われたまま労働をし、納税をし、勉強をさせられる。この社会を変えるには血の革命しかないのかもしれない。ただし一人の能力ではどうにもできない。ならば、僕はひっそりと死のう。

 

 

ベトナム戦争時に、ある僧はアメリカに反対する為に自らにガソリンをかけ火につけ、正真正銘の焼身自殺をした。

それは大きな影響があった。南ベトナムのゴディンニュー夫人(大統領夫人)は「バーベキュー」と表現し南ベトナムは非難を浴び結果として援助を受けられなくなり崩壊した。一人の力で国を滅ぼすにはそれぐらいの要素が必要だったのだ。

 

 

一人が国を、社会を、世界を変えることはできず、ただただ目の前にあるのは苦しい世界だけだと、そう皆が考えないのが不思議である。僕が今日も腹痛に苦しみ、社会の構造に苦しみ、自殺計画を立てている間にも周りの社会人は全然死んでいないように見えるのである。

 

 

さて話を戻すが、クリスマスといえばサンタクロースである。物欲のない僕は毎年この時期はつらかった。何も欲しいものがないからである。お小遣いがなくても困らないほどに物欲は微塵もなく、性欲と食欲しかなかった。

そのために小学校六年生の時、「僕へのプレゼントを恵まれない誰かにあげてください」というメッセージを残し、それから頼むのをやめた。つまり、まだ僕はサンタクロースを信じているのである。僕は頼もうと思えば数年分のプレゼントをお願いすることができる。今年は軽井沢に別荘(非課税)がほしい。いや、在宅ワークで毎月20万(非課税)がほしい。いや、サンタさん、スイスでの安楽死の予約を取っておいてください。

 

 

僕が死にたい理由などほんの小さいものである。ある友人は僕の知らないアイドルの誰かの脱退で脱力し、ある知り合いは同じ会社のおばはんにいらつき、あるお客さんは一生で初めて風邪を一週間こじらせて命の危険を感じた。こんなにも小さい小さい人間に囲まれ、それぞれが小さいことに悩み、苦しんだり笑ったりするのを見ているとクリスマスに人間の小ささを感じる。

上司に詰められてヒーヒー言ってる私も、70億分の1の小さな粒と同じなのである。

 

 

70億人も地球上にいるなら、僕ぐらいいなくても変わらなくないっすか?

じゃあ僕はなんのためにブログを書いているのだろう。誰かに見てもらいたいわけじゃないのか、僕の文章がちょっとでも広がればいい、そうは思っていなかったか。矛盾した何かが胸をよぎる。