嫌いな言葉

 

嫌いな言葉は「努力」である。

 

 

今まで努力しないようにしながら最大効果を生み出そうとしていた私が、社会人になって努力を強いられるようになり、ただただ苦痛である。

努力をしてないとなると詰められる。努力をしても結果が出ないと努力してないと思われる。

 

 

 

努力しないことにしか努力できない私は、努力している姿勢を見せることすら苦手なのである。

 

 

その点で行くと、頑張っているように見せるのが得意、努力が好きなフレンズには尊敬である。

 

 

 

このブログを週二で書くことすらできなくなってきた。浅はかな人間である私はこれ以上書くことがなくなってしまったのだ。

 

 

書く話題などいくらでもある。社会問題、学問、日々徒然なるままに書くよしなしごと、なんだっていいはずであった。

しかし、普段は労働をし休みは寝ているだけしかできない社会の歯車の欠陥品には、これを書くことすら精一杯となってきた。

 

 

Twitterで流行っているものに便乗して、「100日後に死ぬ私」と称して100日後に自殺をする私の感情やらできごとを短文でまとめることも考えた。

 

ただし100日、これが意外に難しいだろう。3ヶ月とちょっとである。三ヶ月後に死ぬと決めた上で普通に生活をすることは難しい。まずは労働をやめ、残った貯金でしばらく楽しむことをまずはしたい。

楽しむといっても無駄はできない。食べたいものを食べたいだけ食べ、好きな時間に寝て、綺麗な故郷の景色を見られれば十分である。

 

 

 

それよりも恐ろしいのは、労働を止めるにしてもそのまま続けるにしても、死ぬ直前にその気が失せてしまうことが恐ろしいのである。

 

 

死ぬつもりで堕落した後、死ななかった時にしなければならない自分の尻拭いはつらいものである。

精神的にも、肉体的にも。

 

 

それだけ継続することが苦手である。「継続は力なり」クソを喰らえ!

そう思っていたら継続すらできない、努力もできない大人になってしまった。口下手で、何も技術もなく、ちょっとした学歴だけがある何もできない人間である。

 

 

皆さまは努力は好きだろうか。努力はつらいものである。つらいものは結果が出ると信じていなければ続けられない。人間などそんなものであるはずだ。

それなのになぜ皆は努力をできるのだろうか。すごい。とにかく真似できるものではない。

 

 

毎日ちょっとだけ何かを追加で努力する、それがすごい。僕には毎日人の形を保っているだけで限界である。明日にはスライムになってしまうかもしれない。

 

 

ゲームすらできなくなった、飽きっぽい私をどうにか、どうにか何か好きなものを見つけたい。何か自分にできることをやっていって、スキルを身につけなければ…という焦りはあるのである。

 

 

「100日後に死ぬ」ということは100日間は死なないわけではあるが、それで思い出すのは北朝鮮の政策「七十日間戦闘」である。

70日間という期間を決めて国民がほぼ休まず労働するのである。これは経済状況の悪化を受けてスタートしたもので、最初は若干の効果があったようだがそれに味を占めた政府は何度もこの七十日間戦闘を繰り返し、最後は二百日間戦闘になり、誰も頑張れなくなってしまったのである。

 

 

かくいう私も、受験直前の70日間でこの「七十日間戦闘」をしたが結局七十日とも朝ダラダラ起きて飯食って抜いて寝てちょっと勉強して…などという自堕落した生活を送ってしまった。

 

 

 

ただただ、運が恵まれていただけだろう。

努力をやめた後の人生は、斜陽である。海の夕日は美しいが、沈んでいってしまうのだ。沈むと暗い夜がやってくる。どうか沈まぬように、どうか綺麗な状態でいつづけたいとその努力をするのだ。