死のうと思ってから、人生がつまらない

このブログは自分の心の美味しくできなかったポトフである。

 

ある日仕事の同期に、仕事を辞めたいと打ち明けたことがあった。すると彼はこう言った。

「仕事を辞めたいと思ったなら早く別のところに移ったほうがいい。一度でもやめたいと思ったら続けられない。大学もバイトも、辞めたいと言っていた人は結局やめていった」と。

 

 

彼(または彼女)の言葉はあたたかいようで冷たいような、でも核心を突いていた。

 

たしかに、頑張りたいと思えば頑張れるが、やめようと思っている状態で長く続けるのは困難である。ストレスもたまる。コンディションも悪くなる。悪循環。

 

 

しかし、辞めていった彼らはどうなったのだろう。バイトは新しく探せばいい。しかし、大学を辞めた人は?次の職が決まっていない労働者は…?

「辞めたいならやめればいい、心が限界を迎える前に辞めた方がいい」そういう言説も多く見られる。しかし、一度大学に合格したにもかかわらず辞めた人、また正社員になったのに辞めた人、その人たちは次のキャリアをつかむのが途端に難しくなる。あまりにも無責任な言葉ではないだろうか。

死ぬよりはマシなのかもしれないが、「死んだ方がマシ」な人もいるのである。

 

 

辞める勇気もないから、精神を蝕みながら続けていくしかない。情報過多で宣伝求人もあって、なんの職が合っているかもわからない。時間がなくて、相談に行くのもつらい。こんなことがままあるのではないだろうか。

 

 

 

結局辞めたいと思ったまま続けても、いいコンディションでは続けられないのは薄々自分でも気がついている。

読者の皆様もそうではないだろうか。

 

 

 

だからといって僕はやりたいことがあるわけでもない。やりたくないことだけがあり、やりたいことも好きなこともないのである。

やりたいことがある方は、それだけで恵まれていると思います。だって、難しくても頑張れる先があるじゃないですか。

僕は小さい頃から夢がなかった。一個だけあった夢は実現した。実現しても満たされていないことがわかった。死。

 

 

 

僕が人生をやめようと思った後何をしてもつらいか、つまらないかになってしまった。

もどかしくなにもできなくなってしまった。

 

 

死にたいと思い始めたのはいつだっただろうか。高校生の時だっただろうか。

 

勉強はつらい。勉強した先にあるものは不確実なものであった。大学もつまらなかった。自分からレールをひくことができなかった。ひかれたレールを通勤準急的なスピードで走りつづけただけだった。

 

 

今も仕事はつらい。一日中外にいる仕事のおかげでいくばくか身体は強くなったようで、冬の寒さは全然つらくなく、知らない人と話すのもようやく慣れてきた。それでも、冬は寒いし夏は暑い。精神的にもつらい。いる人間のタイプが違いすぎて、怖くてうまく上司や同僚と話せない。

 

 

仕事がない日はつまらない。あたたかい家があり、食事できるだけの収入があり、お金がかからない程度にたまには余暇を楽しめるようであるにもかかわらずである。何をしてもつまらない。ゲームもできない。食事はどう作っても美味しくない。

 

 

綺麗なものは飽きてしまう。消滅してしまうこともある。

ただ、信じられるものは毎日登ってくる太陽と、弱っちい自分だけである。

自分を強く持たねば。そう思うが、今日もまた原因不明の腹痛に悩まされ、憂鬱感が支配している頼りない自分を信じることは難しい。

 

 

明日もどう逃げ切ろうか。いや、いっそ人生から逃げちゃおうか。つらい。都市の一級河川の水の中を思い出し、今日も別の自殺方法を模索する。次は後処理もしっかりと。葬式は直葬で、戒名はもちろんなしで、骨は火葬場に引き取ってもらって。資産はほぼないので安心。友達もいないので安心。家族よ、ごめんね。その時はよろしく頼むね。