死ぬ自由の獲得を!

 

今日本は世界の中ではそれなりの民主主義が確保され、国民の自由も保証されている。

 

しかし残念ながらそういった国のほとんどにおいて生き死にに関しては自由を保証されていない。

スイスやオランダで認められている安楽死の制度も「身体に重篤な病気や障害がある場合」に限られている。

いわば、勝手に生み落とされ、死の時期を自分で決めることはできないのである。

 

 

これが一番の困りどころである。自分達は気がついたら生まれており、どんなに苦しくとも死ぬことは許されていないのである。

とはいえ、自殺するのは勝手であるから、死ぬ自由は暗黙の了解という点で確保されているかもしれない。

 

 

つい先日、新宿の人通りの多いガード上で若い男性が首吊り自殺をして亡くなった。

冥土があるなら冥土での幸せを祈るしかない。自分から死を選ぶほどだからかなり辛かっただろう。しかし、ネットの声は「死んじゃダメだよ」とか「死ぬならもっと目立たない樹海にしろよ」とかそういったものが目立った。

 

 

これを見て、死ぬということがあまりにも不自由な社会であるとそう感じた。

死ぬということはもっと自由に、「退職」とか「離婚」のように人生の選択肢の一つとしてできないだろうか。人生をやめるという人生の選択肢である。

 

 

とはいえ、自殺する人の多くは苦しみたいわけではない。殺されたいわけでもない。痛い死に方をしたいわけでもない。亡くなった後、綺麗でない状態の遺体を発見されたいわけでもない。

 

富士の樹海には多くの人が自殺しにやってくるという。遊歩道から10分程度歩けば、いまだ手をつけられていない白骨化した、身体の一部を喰われた遺体がたくさんあるという。

 

 

誰もがそのようになることを望んだわけではないだろう。

 

辛かったら自殺を止める相談センターに相談せいというのが世の中の風潮ではあるが、そうではなく「安楽死センター」がほしいのである。

意識をなくしてもらった状態で薬剤を注射するなどしてチーンしたいのである。

 

 

困ったら相談に乗り、解決できるなら解決し、解決できないなら死んで楽になる。それがいいのである。死んだら仕事も人付き合いも金の関わりも実体のある身体もなくなるのである。

生きてればいいことがある、ではない。そういった人にとっては、仕事をしなければ生を維持できないこと、生きている人間と関わらなければならないということ、金銭の多少、健康問題から逃れられることがいいのである。

 

 

今の時代に選択できるような旧時代的自殺ではなく、「文明的」な自殺ができるように、どうか、時代が変わってほしい。

 

 

安楽死センター、あったら是非僕も駆け込みたい。逆に、生きる目的が一つできたかもしれない。僕はこの死の自由を確保するために戦わなければならないのかもしれない、すべての死にたいと思っている人のために。

 

 

しかし先に挙げた離婚や転職は以前は自由にはできなかった。しかし価値観の変化に伴って自由にできるようになった。同じように人生のリタイアも自由にできる時代が来るのではないかと薄く期待している。

そういう時代が訪れたら僕はきっと「豊かな生活ができるようになるまで自殺を繰り返す」だろう。残念ながら死んだらどうなるかがいまだに証明されていないのが難しいところである。