いいだろお前成人の日だぞ

 

成人の日、振袖を着た女の子がたくさんいる日である。皆さまは行かれただろうか。このブログを読んでいる皆様は嫌々行ったか、行かなかったかのどちらかではないだろうか。通過儀礼というのは面倒である、そういう世界観で育った人がネットには多いだろう。

行かない理由には地元でうまく馴染めなかった、めんどくさい、振袖が高い、地元から引っ越しているなどの理由が主にあるだろう。

 

 

 

僕にとってはさてこのうち何割が処女だろうか、そんなことを考えながら過ごす1日である。特定の年齢がこんなに一目瞭然となる日は滅多に訪れないものである。20歳当時の僕は全く見向きもしなかったが、だんだんと20歳から離れていく中で、最近振袖の可愛さに気がついたのである。ちなみに僕は処女である。

 

 

成人の日はワクワクするものである。中二病の僕にとって成人の日は「抗議の日」であった。

こういうものには行かない、という強い意志をかためていた僕は皆さまの想像に容易いだろう、成人の日もサボった。そして日中はバイトに、夜は家でホモビデオ「BABYLON STAGE 31 罪と×」を見てその中で空手指導のおっちゃんがセクハラしながら言った「いいだろお前成人の日だぞ」という汎用性皆無の語録でガハハハと笑って過ごした。

 

偉大なる抗議である。僕はこうしている自分が誇らしかった。今でも成人式にいかなかったことを誇りに思っている。

 

 

高校時代から長らくインターネットの淀みに過ごしてきた僕は、Twitterのこの日のTLは毎年「いかなくていいよ、成人式」なんていう優しい声で溢れているのが安心するのである。そうそう、それでいい。

またこの日ばかりはたくさんの「いいだろお前成人の日だぞ」という語録がタイムラインに流れているのも快適である。

 

 

通過儀礼は地域社会で生きていくには必要な儀式である。しかしながら地域社会は崩壊し自治会町内会も参加せず、次は会社に縛り付けられるようになった。新年会、花見、送別会…など会社での行事が通過儀礼のように扱われるようになったのである。しかし、この「職縁」が主な繋がりとなったのは平成中期までに終了した。あわただしく人が辞め新たに入社し、ずっと会社で同じ人たちと関わっていくということはなくなった。忘年会スルーなどといい、会社の行事も行きたくないという選択肢が普及してきた。(少なくともネット内においては)強要することはハラスメントになり、給料が出ないのであれば強要できない、そんな時代となったのである。

 

 

通過儀礼をもとに稼ぐ人達も一定数存在する。振袖レンタル/着付けなどのサービスや、忘年会などの需要を一気に引き受ける居酒屋などである。彼らにお金を取られるのが嫌で参加したくないという人もいる。余計なお金は使いたくないものである。その「余計」に通過儀礼も含まれてしまったということだ。

 

 

この時代、一定の人数が集まって定例行事をする、飲み会をするということは少なくなってきた。趣味の集まりが主要なものとなったとはいえ、それも徐々に変わっていくだろう。孤独の時代である。地域社会の通過儀礼などは無意味なものとなり、やりたい人だけが出るようになればいい。しかし実態はやりたい人がやりたくない人に出ることを強要し、気まずい世の中になっていく。

 

人の繋がりが希薄になっていくのは今の私も身を以って実感する。中高で部活をせず大学時代サークルに行かず、職場の飲み会に出ず、高齢になって時間ができても地域活動をしない。これからはコミュニケーションが必要のない時代が待っているのかもしれない。今の時代、人と話さなくても海外旅行ができるようになった。お金を持っており、数字さえわかれば旅行は済んでしまう。現地の言語は分からなくても大丈夫。これが旅行だけでなく、生活でも当然になっていく。朝起きて、仕事では機械に対して黙々と指示を出し、帰りはスーパーで食材を買って帰って寝て1日終わり、そんな時代が来れば言語は必要がなくなる。現にそんな生活を送っている人がいるかもしれない。

 

 

 

そう考えれば成人の日など必要ない、生活に人間関係は必要ない時代がやってきたのかもしれない。とはいえ、そんな時代は寂しい、人と集まりたいという人も多いのである。

これからはこのあたりのバランスが難しくなっていくだろう。僕は今日も無為に過ごすのである。