生きる気力があるわけではないけれど、なんとなくこの二週間、死という選択肢が現れなくなってきた。
脳内でうるさい妙なお喋りやブログのような文章の詠唱や音楽も若干おさまってきて、視界が若干クリアになったような気がする。
死の瞬間をイメージしてふんふんすることもなくなってしまった。
一応 薬が効いているのだろうか。余計なことを考えないと、純真に生きられる気がする。
なんとなくあんなに死にたくて死んでなかった自分は偉いとも思う。
僕は昔書いた「しこるねこ - ガキのたわごと」の記事から脱却し、無趣味をやめ、趣味を持った一般的な健常者の人間を装うための元気と財力と自由が発生した。
ただ、僕にとって趣味は極めたり同趣味の人と馴れ合いをしないと趣味といえないと思っているので、あくまで趣味とはいえない。
集団の人間と関わるのがストレスな僕は馴れ合いができないし、飽きっぽいので極めることもできない。詰みだ。
さて、僕の凝り固まった考えはさておき、僕の趣味人装いは「料理」と「二輪」からスタートする。
僕が料理するのはあくまで自分のために、自分の満足する味を最安値で実現するためである。
僕が食べたい味は僕にしか分からない。
→外食を続けると高い
→なら外食に負けないレベルの食事を作ればいい
という論理である。
僕が二輪に乗るのはあくまで移動手段である。
四輪に乗れない
→原付なら普通自動車免許で乗れる
→高速に乗れた方が移動距離が広がる
→二輪免許を取る
という論理である。
別にどちらもすごく好きというわけではなく、生きるために仕方なくやっていることなのである。
とはいえ、話せばついでにまあまあ聞こえのいい趣味っぽく聞こえるのでそれはそれでいい。
僕は微塵切りもできないし包丁でやっと指を切らなくなったというレベルだし、他人にとっては言うほど美味しいものでもないだろう。
二輪だってクラッチができず泣きながら教習所に通っているし、バイクの車種なんか微塵も興味がない。動いて俺の言うことを聞いてくれれば正直なんだっていい。カスタムする気もない。
まあでも人に聞きながらいれば、他の人よりちょっと詳しくて広く浅い人っぽく見えればそれで十分である。妥協。
生きる気力はないけれど、人の社会では人らしく(健常者らしく)していなければならないので、頑張るしかない。
今日も発達障害はギリギリのキャパシティをアンダーコンストラクションして自己への破壊衝動を抑えている。
僕が二輪免許取って、何年か後にでかいバイクを買ったらやりたいことは、首都高の隅田川の上走ってるところから隅田川にダイブすることです。
脱、しこる猫
休みの日にシコってばかり寝てばかりの悲しい中毒生活は終わりだ。
さあ、今日も泣きながら教習に向かおう!