かすり傷で死ぬ

死ぬ事以外かすり傷、と言うけれど、複雑骨折や大病でも死ねないなどということを考えると、相当痛いかすり傷という概念が存在するのだろうか。

 

かすり傷は不幸だが、死ぬことは幸せではないだろうか。死ぬことは苦しい人生の中での褒美ではないだろうか。

 

世の中の多くの人は、意外にもそう思っていないらしい。

 

死ぬか死なないかギリギリのところで

ギリギリを維持しながら幸せを勝ち取るなんていう器用なことはできない。

 

僕はちょっとでも物事がうまくいかないと、落ち込んだり苦しんだり、馬鹿で感情に支配された生き方をしている。

 

物事がちょっとでもうまくいかないのは他人から見ればいわゆるかすり傷だろうから、僕はかすり傷でもわめいている赤ちゃん同様というわけだ。

 

 

人にいいことをされたらいいことをし返せばいいけれど、人に悪いことをされた時に悪いことをし返さないのは難易度が高い。

 

いい思いをすること、快感を得ることは何も間違いでも悪いことでもないと思うんですよ。いい思いをしたり快感を得たならば、その分人にいいことをしてあげればいいのではないですか。

 

 

おっと、宗教的なことを言ってしまいました。悪いことをしなければいいんですよ悪いことをね。

 

 

かすり傷で精神は容易に死んでしまう。負荷がそれだけかかっていたのだろうか。

 

とはいえ、僕は自らの不幸話を他人に隠さず話すようにしている。何故なら人の不幸は蜜の味というじゃないですか。僕は自分から精製された蜜を他人に多量に飲ませます。

 

 

いい人というのは根っからいい人だったりして、根っからのいい人は結構信心深かったりする。僕は僕以外の何も信じていないので、結構根は悪人だと自負している。

根っからの善人でない人が善人ぶるとボロが出てきてしまうのです。今僕はボロがでかかっています。このように善人ではありません。

 

 

僕は一生海で溺れかけた状態の辛さを味わい続けるのでしょう。だから僕自身助かったり幸せになることを諦めています。

人生ガチャ、割と失敗。僕が買った株のように、ゆるく上がったりゆるく下がったりガクッと落ちたり急上昇したり、ただただ不安になるような人生を送り続けてしまうのかな。

 

 

耳元ではイヤホンから僕の好きな歌手が美しい歌声を披露している。携帯を開けば僕を愛している人からLINEがきて、ブログを開けば毎日5人が読んでくれて、それなりの味のご飯を作ることができて、明日のご飯代にも困らず、一台のバイクも持っている。何が不満なのか。何が物足りないのか。

この物足りなさや、幸せへの恐怖が襲ってくる。

 

かすり傷も全身食らうと相当なダメージがある。すでに僕は全身が傷だらけで、治らないのかもしれない。

 

世間的に見てどれだけ幸せになったように見えても、僕はいつまで経っても満足できない。人格に問題があるのか…性格に難があるのか。

 

 

これ以上迷惑をかけてはいけない。救いが現れるその瞬間まで、僕は頑張らなければならない。でももう頑張れない。

早く僕を助けてください。