桜という花は不気味なものである。
坂口安吾も「大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。」と言っている。
これは桜の森の満開の下という作品からの引用である。
山で最強であった山男が桜の森の下で狂って奥さんを殺してしまう話で、ただの気狂いであると言われればそれで終わりなのだが、ただの気狂いでは終わらないなんともいえない共感が残る。
まず桜の怖いところは、枝がどす黒いことである。そのやたら黒い枝を隠すように大量の花が咲くのだ。
それはまるで下心を隠す男のような様で、惨めである。
しかもまた怖いのは、葉が生えてくると毛虫が湧くのである。
恐ろしい。これが本性たり、と言わんばかりである。
外っつらは綺麗なのに内なる攻撃性を孕むメンヘラのようである。
また兼好法師も、花は盛りにの中で「咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。」と言っている。
つまり、花はそろそろ咲きそうなタイミングや、散ってしまった庭こそ見るべきと言っている。生粋のドM。
これを初めて読んだ時、遅い反抗期の来ていた私は軽蔑した。
「AVのインタビュー全部見て泣いてそう」としか思わなかった。
しかし、AVのインタビューには泣かされる要素があった。
彼女らの出自を思えば、何かしらお金が必要な事情があったりして、人生のドラマの一部分が表されている。
つまり兼好法師が言いたいのは、インタビューシーンを見てAVのその後の高まりを想像してシコるということなのである。
生粋の変態である。
彼のような男が現代に生きていたとして、今のpornhuber(pornhubに動画をカップル等で投稿する人たち)を見たら興醒めどころではないだろう。
いや、むしろ繰り広げられるラブラブエッチになにかを見出して徒然草の最新章を更新するかもしれない。
そもそも、達観しすぎて兼好法師はインポかもしれない。
僕の方といえば、高校生の時はドキドキしながら「18歳以上ですか?」にはいをタップしていたのに、最近はそのように聞いてくるサイトをタップすることすら稀になった。
飽きてしまったのである。
古文上では飽きるとは満足するという意味を内包するが、ある意味では高校生の時に見すぎて満足してしまったのかもしれない。
そんな僕もいい歳になってしまった。高校生もひと昔以上前となってしまうだろう。
生きたいとも、死にたいとも思わない間で、ただ毎日をうだうだと過ごしています。
まだ、死にたいと思いながらも、たまに見るAVに目をキラキラさせていた高校生時代の方が新鮮味があったなと、今更ながら思うのである。
しかし、今となってはもう遅い。今は今恵まれている要素を楽しむしかないのである。
とはいえ、今恵まれていることに今気づくことは難しい。愚かな私は後から気づくのである。