2011年3月11日、僕は初等教育8年目であった。
よく晴れた午前授業の金曜日、午後は部活であった。
インキャの集う文化部の部長だった私は、いつものように20人程度の部員にパワハラをし、面倒がられていた。
14時45分、一つの異変を気に留めもしなかった。
初期微動の影響で、5つある水槽の水が大きく波打っていた。
部員が水槽で遊んでいるんじゃないか、そう思った瞬間、尋常ではない揺れに襲われた。
震度5強だった。
僕は揺れている当時間違った対応をした。全ての窓を開けて、細い流しの上でバランスボールのようにバランスを保って遊んでいた。
「すごい揺れだ!慌てるな〜!」なんて言ったような気がする。
揺れは1分弱続いた。幸い私と周囲の人間に被害はなかった。
そこから全校放送が入る。「校庭に避難するように」
狂気の沙汰ではない。
これが南海地震、東海地震だったら、海の目の前にあるうちの学校は大津波に飲まれ、地上にいた全校生徒が海の「もずく」となってしまう。
仕方なく「死の命令」に従った。どこの地震かもわからない状況で、情報を得るために技術の授業で作った手回し発電機つきラジオを持った。
校庭にはパニックというか興奮した学生がダッシュで逃げてきた。
そこに轟音のサイレンが鳴る。大津波警報だ。
ラジオからは…朧げながら「東北地方で…強い地震が…7m級の大津波に注意」と聞こえてきた。
ここの教師はバカじゃねえのか!大声で叫んだ。
それでも周囲の人の興奮から届かなかっただろう。大津波警報のサイレンは鳴り響いている。ほどなくして3階に避難することになった。
3階の和室に集められた。家から保護者に迎えにきてもらうのを待つのだ。
ラジオを持ったまま、3階に避難し、ラジオを流していた。その方が皆に有益だと思ったからだ。
当時から将来に絶望していた僕は、このまま大津波が来て死んでしまえばいいとか、自分が当時好きだった女の子を救う妄想をしたりした。
ラジオから流れてくる一つ一つの情報が衝撃的であった。友達と興奮しながらこの地震の影響や被害について話し合った。
しかし、周りには迷惑であったらしく、スクールカースト上位の女子から「それうるさい」と言われ、大ダメージを負った。
教師が3月14日に待ち受ける模擬試験を1階から3階に上げた。
それには大ブーイングであった。大津波警報が解除されない中、命をかけて1階まで生徒を苦しめる試験をとりに行った教師もきっと不本意であっただろう。
当日の記憶はここまでである。
もう12年も経つと多くをわすれてしまう気がする。
それからだ。僕が当時ガラケーでネットにのめり込んだのは。不安が蔓延る世の中で、ネットには希望がある気がした。
それから2年後、僕は自分で旅行を計画した。
東北地方宮城を仙台-小牛田-石巻-松島-仙台と一周するルートだ。
当時は仙石線は復旧しておらず、バスに乗った。
街はぐちゃぐちゃだった。文字通り建物はバラバラで、柱が散らばっていた。ここで一体何人の人が亡くなったのか想像すると怖すぎて、写真を撮れなかった。
仙台は発展していた。駅前に巨大なロフトがあって、いい街だった。
その一年後には、女川と気仙沼に行った。
瓦礫は撤去され、高台に家が立ち並び始めていた。女川は、駅から海と墓しか見えなかった。
不気味だった。
南三陸では復興と書かれたトラックが行き交い、土が丸出しの土地は怖かった。
最近は東北に行っていない。きっとだんだんと災害の爪痕は薄れていっているだろう。
きっとまた災害は起こる。
今は今の職場を守ることが仕事に盛り込まれている。
仕方がない。今度はもうちょっと頑張ろうではないか。